最近あったこと。関係性を深めるってなんでしょうね...

じーーっと黙ってる。

「どうしたの?何考えてるの?」

「・・・・・・・・」

しょうがないから、自分の仕事をやり始めようとしたら

「・・・、ちゃんと出会えていないような気がするんです。」

と口が開く。


しばらくちゃんと向き合う時間をつくれていなかったからこうなるんだなと反省しながら

「あんまり時間つくれてなかったからね。
ごめんね」

と仕切り直しをしてみる。

いろいろ溜めていたものが、あれよあれよと噴火する。

泣く。

泣いたと思ったら笑いころげる。

笑ったと思ったら今度は怒る。


もっと時間つくってほしい

話きいてほしい

認めて欲しい

甘えたい

ちゃんと観ててほしい


それぞれに語る。

もちろん、それが本意だとはまったくもって思わないから


「それで...本当はどうしたいの?
どうありたいの?」

って一段階話を深める。


親が子どもを愛するように

或いは好きな異性を愛するように

欲求のままに、この5感覚の因果に縛られたままで

関係を結ぼうとするなら


私を存在させて

私の言葉に

私の表情に

私の行動に


それらを観て、いったんは安心を勝ちとったとしても、また上がったり下がったりするのが目に見えるから

私は私で集中が必要で、

目の前の『あなた』に必要とされることを私の存在意義として満たそうとするのではないの?

と問うてみます。アイデンティティを移動します。

実在する『私』を基準値にして、出会うことは
ちょっと苦しいんですね。

出会い続けること

愛し続けることを本気で成そうと思うから

『自分と自分の宇宙は実在しない』

大前提を再規定することをするんです。

この体をもってずーーーっと一緒にいることは
とっても難しいよね?

じゃあどうすればいいの?

そんな問答を繰り返しながら

少しずつ

少しずつ

画面の外に出れるように

自分でつくった考え、感情に

自分で縛られて苦しくなって

死にたいとか、そんな風にならないように

どんな条件にも変化しない動きひとつを捉えられるように

裏支えしていきます。

共にいる、共にあることを感じることができるように...

5感覚を超えて

6感覚スタイルが当たり前になったら

もう生きること 死ぬことにとらわれず

大義を成し、正義を成す『 私たち』として生きることができる

そんな風に考えています。


ああ。

人間ゆうこさんもいるでしょーと叫ぶ仲間たちに

ゆうこさんにはゆうこさんらしくいてほしいんですー

と、半ば突進してくる仲間たちの意志というか
まあ、すごいんですよ。

その仲間たちの意志によって
私も変えられていっているんだなと思います。

仲間たちって言ってもどこからどこまで?
となりそうですよね。

出会えば全部仲間。。。


それくらい。存在レベルで出会えるなら
かなり関係性は近しいと思うので
ひとつひとつの出会いを大切にしたいんですね。


まあそんなにです。