ぽつんーFumika’s Healing Story①

こんにちは。風海花(ふみか)です。

 

風海花のブログに来てくださる皆さんと

より深い交流ができたらと思いまして

風海花について、少し語ってみたいと思います。

 

 

『ポツン』

 

どこにいても、ポツンとしてしまう。

このからだがポツンではなくて

心がポツンとしてしまう

nTechに出会う前の私はそんな感じでした。

 風海花は、小学1年生のときにピアノや合唱指導をして容姿端麗、何でもできる母が精

神疾患を患い、それ以降、自分の本当のニーズを素直に表現することが難しくなりまし

た。

 

 母の変貌ぶりは幼い私には大きなショックでした。

ピアノも歌も何でもできる唯一無二の母が、

幻覚や幻聴、ときに発狂する。

 

そんな母を私はに人間として、自分の母として受け入れられず

母の入退院を見守りながら

「いつか神さまが助けてくれる」

と信じていました。

 

母の発病後、人間関係を変える必要に迫られ引っ越しをしました。

引っ越した先で、毎週日曜学校に通うようになりました。

 

学校や日常生活では母がいなくても

笑われないようにひたすら頑張る。

そんな毎日でした。

 

 

そんな中、母に対しては特に基本的な欲求やニーズを伝えることが不得意なりました。

 

「今日のごはん何?」

 

「学校で○○が必要なの」

 

というようなことさえも、母の顔色を伺いながら言い出すのに勇気がいりました。

 

ーこんな私の気持ちは誰にもわかってもらえないー

 

ーみんなに笑われないように、とにかくがんばろう!ー

 

とスローガンを掲げて、母が精神疾患であることを悟られないように、平常心を装うことを必死でやりました。

 

「可哀そうに...本当にがんばって偉いわね」

 

という励ましの言葉、応援の心をいただくことも多かったですが、励みになる反面、母を悪く言われたような気もして、返って自分を惨めに思うこともたくさんしてきました。

 

そして、曲解でもありますが、


私は人から差別される対象であって、

見下さられる、馬鹿にされる存在なんだと無意識深く思い込むんですね。

 

母のことや、家のことに踏み込まれたくない心を

随分と強化したと思います。

 

「我慢しなくちゃ!私が頑張ればいい!」

 

繰り返しますが本気でこの反復でした。

 

鎧兜のように硬い鎧をおおってましたから、

今と違って人を寄せ付けない雰囲気というのが多分にありました。笑

 

 

 

【小さな信仰-小学生のとき】

 

 

小学1年生のとき、近所のお姉ちゃんがクリスチャンで、彼女と一緒に教会に通うようになりました。

 

「神様が私を助けてくれる。母の病気をなおしてくれる。」

 

神様は私の「唯一の友だち」になりました。

 

私にとって、母は憧れモデルでもありました。

 

ー母のような音楽の先生になりたいー

 

ピアノも歌も料理もなんでも出来る母。また、今はさておき若いときの母は綺麗な人でした。そんな意味でも憧れだったんですね。

 

小さな私は、日曜日は礼拝に通い、小さな信仰者として祈りつつ、ピアノや歌で人にうまく言えない自分の気持ちや寂しさ、苦しさを昇華することをしていました。

 

学校では隙を見せないように鎧兜のように、一人でなんでもできる子を装い、人を寄せ付けない雰囲気を醸し出し、そのプレッシャーの反動か、家では何にもできない女の子になる、そんな感じだったのではないかなと思います。「醜いアヒルの子」や「母を訪ねて三千里」「みつばちハッチ」「あしながおじさん」のようなアニメも自分と照らし合わせて好きでしたね。

 

自分の世界にハマってポツンとする。

そして、神さまに祈る。これが唯一の至福のごとく

そんなことを繰り返していました。

 

中学の卒業アルバムにとなりのクラスの親友から

 

「ゆうはいつも一人ポツンとしてるよね

高校になったら、殻を破っていいんだよ!」

 

 みたいなことを書いてもらって、ギョッとしたのをいまでもよく覚えています。

 

【小さな信仰ー中学生のとき】

 

中学になって、小学生のときに通っていた教会とは別の教会に行くようになりました。これも同じ中学の親友からの誘いでした。断る理由はなく、むしろ喜んで教会に通いました。前にも書いたように

私にとって神さまは唯一の友だち。人間で補えない完全性を持っているところが魅力だったのだと思います。

 

が、篤く信仰をもっていても人間関係は芳しくありませんでした。私の周囲に良い人がいなかったというのではなく、そもそも関係性を結ぶイメージが希薄でした。神が善だとしたら人間は罪人というような無意識の判断をしていたかもしれません。少しでも世俗的な話しが出るなら、それは相応しくないとぶった切ってしまうほど、キツイところがありましたね。まるで寛容ではなく、笑。なので人間関係が結べないのですね。

 

友だちになりたいし、近づきたいけど近づけない、そんな葛藤が頻繁におこりましたね。

 

ピアノや歌は母の影響もあって、少しばかりできたので奏楽者として賛美のリードをしたり小さな子の学びのサポートをしたこともありましたが、大前提のコミュニケーションに限界があって少しずつ遠くなりました。

 

 

精神障害者へひきこもり支援、音楽療法との出会い】

 

教会から疎遠になる代わりにというか、母の病気のこともあって、精神障害者のひきこもり支援に没頭すようになりました。学生時代は社会教育と合唱に明け暮れ、卒業後に音楽療法の勉強と実践をして、関わっていた地域医療の先生や家族会の皆さんからは高く評価されるようになりました。

 

けれど、現場は腑に落ちないことばかりでした。目の前のクライアントさんが正常とか異常とか判断する自分が良く分からなくなることが度々ありました

同じ人間なのに、正常/異常と判断する、その目はどんな基準かと、何をどのように考えれば良いか迷走するようになりました。結果的に音楽療法の現場も離れるようになりました。観術に出会ったのは丁度この時期ですね。

 

また後編を書きたいと思います。

 

 

 

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