おはようございます。
観術と音楽をこよなく愛し、
美学実践に邁進するさわゆうです。
と宣言することで、
何某かの変化が訪れれば幸いです。
さて、昨日のこと
私が2年ほど前から直接みている20代の男の子から、こんな相談を受けました。
「自分のことを書きたいと思うんですけど、書けないんです。」
「いいな!と感じることはたくさんあるんですけど、それを打ち消すように、
そんなくだらないこと!
面白くねえよ!
みたいにノイズが邪魔するんです。」
という相談でした。
全く自分のことを表現できなかったところから、観術を自らにインストールして、少しずつ人の輪の中に入ることができるようになり、自分のニーズを表現できるようになったことを思えば、急激な変化を成し得ている方です。私だけでなく、周囲も認めているところであったりします。
ですが...
いえ。だからこその相談とも言えるかもしれませんね。
もっと表現したい
もっと自分の感じていることを素直に出したい。
そんなような叫びに聞こえました。
試しに質問しました。
なんで書きたいけど書けないって思うの?
そうしたらこんなお返事でした。
「どうしても完璧に仕上げなければならないと思ってしまうんですね。
誰が見ているかわからないし
かっこつけたい自分もいます。
そういうのが邪魔するんです。」
なるほど、納得なお返事でした。
完璧で、人から認められるようなものをつくりたいという心、或いは、そうでなければ表現してはいけない!というような自分の中での厳しい決めごと。
彼ばかりでなく、日本人はそういった傾向が強いかもしれません。うっかり私もそういう傾向が覆うにしてあります。
たくさん感じていること
気づいていることはあるけれど
人の目、外の目が気になって
押し黙ってしまう。
この古き良きか、日本の清であり静のパターンを超えたい...
さらに訊いてみました。
それで、本当はどんなことを書きたいって思っているの?
「本当は、この前、ツツジが綺麗に咲いているのを見て、これは綺麗だなって思って、写真を撮ったんですよ。だからそれをインスタグラムに載っけようかなって思ったんです。
でも、思った瞬間に、そんなの誰も見ねえよ!みたいに打ち消すノイズが入るんです。」
なんてこと!!!
書きたいこと、伝えたいことが
本当に美しいじゃないですか!!!
私は絶句しました。
男の子だから、そんな表現男らしくないとか、そんな風にでも思うんでしょうか。
春を感じ、
日本の花を感じる心をもって
それを表現するなら
少なくとも私は喜んで読みますし、見ます。
多くの人が喜ぶことを追求しようと思うなら
たった一人の誰かが喜んでくれることを
集中して表現することに邁進したらいいですね。
たった一人の誰か
それは誰よりもあなた自身です。
あなたではない誰かを存在させて
その存在がどう思うか、どう評価するかに
右往左往されることは無い。
私はそう思いますし、
それが観術教育、尊厳教育の大前提です。
日本の心は
繊細に、ささいなことを喜べる
美学を実践する心そのものと私は捉えています。
小さな気づきの発見を蓄積することが
「書くこと」
と繋がることを祈りつつ。
これからもその方の歩みを応援していきたいと強く思いました。
この蓄積が、ブレない意志や、強靭な意志を育てるきっかけと確信しています。
読んでいただいてありがとうございました。